社会保障論 - イギリスの歴史 -
なぜイギリスの歴史か
- イギリスは資本主義国家の先進的な事例として、社会保障や社会福祉の歴史がある
- 典型的な資本主義の発展家庭を経ているので理解もしやすい
- たとえば
- さらにイギリスの社会保障の施策は、戦後の日本の社会保障制度も大きな影響を与えている
エリザベス救貧法
- 世界初の公的な貧民の救済
- それまで(1601年、エリザ別救貧法ができる前まで)は、イギリスでは教会や地方が救済してた
- それだけじゃ間に合わなくなったので、公的に対応
できるまでの流れ
- 当時は中世の封建社会
- 農民は封建領主の支配する土地に固く縛られた身分
- 当時のイギリスは織物産業が飛躍的に発展していた
- 羊の毛を作るほど儲かる(↓が詳しい)
- 農地を牧草地に転換 →
囲い込み施策
羊が人間を喰う - 学校では教えられない現代社会(諒真) - カクヨム - 囲い込み施策により農地がなくなった労働者が都市に流出
- 貧困の労働者が形成される
トマス=モア 羊が人間を食う
- ところが、絶対王政(テューダー朝期)が確立する
- それまで貧困救済の主体だった封建領主や修道院が没落、解体
- そのため都市に浮浪者や物乞いが増えた
- そこでイギリスは絶対王政のもと、社会秩序、治安を維持をする
- 1601年に貧民や浮浪者を抑圧的に管理する「エリザベス救貧法」を制定した
エリザベル救貧法の内容
- それまでにあった、こま切れの救貧法を集大成したもの
- つまり、目新しい法律がここにたくさん載っているわけではない
- これまでの法律を集大成し、分かりやすく整理し直したというもの
国家単位の救貧行政
- 救貧行政の主体から教区から中央政府(中央救貧委員会)に移る
中央集権的救貧行政機構を確立 (教区)
- 国王直属の枢密院(すうみついん)の統制下に治安判事を置く
- 国家単位での救貧行政を行う
- 以降、救貧行政は国家の管轄となって中央集権化していく
- 教会という、ひとつのコミュニティ・エリアを教区単位
- 教区単位で教区委員と治安判事により任免される貧民監督官が、救貧行政の実務を担う
- 救貧勢を住民から集めて、実際に救済を行う仕組み
貧困者の区分け(3分類)
- 労働力のある貧民
- 労働能力のある貧困者は強制就労
- 拒否するものは懲治院 に収容する(刑務所のようなところ)
- 懲治 = 懲らしめて悪癖を直すこと(辞書より)
- 労働力のない貧民
- 住宅で救済、もしくは施設に収容する(障害者や高齢者、児童など)
- だたぶち込んで閉じ込めてるだけな感も...
扶養能力のなき貧民の児童
- 働ける児童は、師弟制度により就労を強制
- たとえばパン屋さんや大工屋さんなどに住み込みで働く
- 身寄りがない子供は奉公や養子に出された
この法律により、貧民への対応の主体は、教会や封建領主から国家へと変わった
- しかし、この法律は治安維持を目的としていた
- そのため、内容は抑圧的なもの
- 貧民はワークハウス 懲治院 に収容された
- そこで生活を保障される代わりに労働を強制された
エリザベス救貧法の後の改革
ワークハウステスト法 (労役場テスト法)
- 1722年の労役場(ワークハウス)テスト法
- 救貧法による救済は労役場(ワークハウス)に収容することに限定する
- ただし、当時このような収容は「恐怖の家」と言われ、そこに入るのを恐れられていた
ギルバート法
- 1782年のギルバート法
- 労働能力のない貧民(老人、病人、孤児、母子)は収容する
- 院内救助
- 労働能力のある貧民は在宅での仕事を与えた
- ワークハウステスト法は施設にみんな収容してしまうのに対し、ギルバード法は在宅でも救助が認めらた、というように変わっていった。
- 施設外でも救済 → 院外救助 (住宅保護、住宅福祉)
スピーナムランド制度
- 1795年のスピーナムランド制度
- イングランドのスピーナムランドで実験的に導入された制度
- 失業者や低賃金労働者にパンの価格と家族の人数に応じた最低基準を算定し、その差額分を救貧手当として支給
- つまり、物価と連動した院外救済制度といえる
- 現代の日本の生活保護制度に近い
- デメリット
- 賃金の補填を福祉で行うため、事業主は賃金を安くする
- 働かなくても収入は変わらないため、勤労意欲が下がる (
貧困の罠
) - 救貧費(福祉の予算)が膨らむ
- その結果、この制度は破綻した
新救貧法ができるまで
- 18世紀に入ると、自由主義思想や古典派経済学が盛んに
- この頃の公的救助の考え方は、かなり批判的な意見が多かった
アダム・スミス
- 経済学者
- 国営論(1776年)において、各市民が自らの経済的利益を追求すれば、「神の見えざる手」により国の富は増大する *「市場に任せておけば、世の中はもっとうまくいくのだ」と考えられていた
- 国家が市場に介入すると、経済が余計悪くなる
- 国家による人々への生活の干渉(徴税と再分配)は最小限にするべき
- 国家の役割は「夜警国家」、犯罪を取り締まれば良い
マルサス
救貧法を徹底的に批判
- 「人口論」(1798年)で有名な研究者
- 人口が増加しても食料生産は追いつかない
- よって、貧困の減少には繋がらない
- 逆に、救貧法は人口増加に繋がるだけである
- 貧困者をそのまま放置しておけば、貧民の子が生まれて、貧民が拡大していくのは当然
- 貧困対策は、人口抑制策以外にはない
対応案
- チャリティー(慈善活動)に期待
- 公的な救済では福祉に依存してしまう
- 民間のチャリティーであれば、そういう権利意識は芽生えない
- 善意
- 善意は騒々しい図々しい貧民の希望を抑圧し、
- 罪なくして困窮に悩んでおり、何も言わずに引っ込んでる貧民には適切な救済を与え、これを励ます
- ↑実は明治以降の日本で最初にできた救貧対策の根拠にもなってる
- 保護対象を「無告の窮民」に限定してた (恤救規則)
- 無告とは、何も言わない人にしか救助しませんよ、ということ
新救貧法
- 1843年に執行
- 公的救助を削減 = 公費負担を削減
- 貧民の救済を拡大することを目的とはしていない
- 新救貧法は、貧民の救済を縮小することを目的として制定された
- 居宅保護を行ったギルバート法やスピーナムランド制度によって救貧税が膨大化した
全国統一の原則
- 行政による救済水準を全国的に統一した
- そのため、救貧行政を中央集権化された
- 1800年代だと情報伝達や制度の均一性を保つのが難しかった
- 地域によって福祉の受けやすさが違うと、人は福祉を受けやすいところに移動しちゃう
劣等処遇の原則
- 世界で初めて、公的な貧民救助に劣等処遇の原則を適用した
- 公的な支援を受ける人は、支援を受けてない最底辺の労働者より下の状態でなければならない
- 一見当然だと思えるが、落とし穴ももある
- 不景気で底辺の労働者の生活が苦しい場合、それに合わせて受ける支援の質も下がる
- そのため、支援を受けても苦しいのは変わらないという落とし穴
強制労役制度の強化
- 院外救助は全廃止
- ワークハウス(懲治院)による「院内救助」のみ
- つまり貧困で福祉が必要な人は施設に入るという原則が再び作られた
新救貧法の後
- 貧困問題は解決されない
- 新救貧法により救貧勢は大幅に抑圧された
- ワークハウスは市場最悪の環境となり
- 貧民、労働者の暴動を招き、資本家と労働者の対立が激化した
民間慈善活動
- 19世紀中期、各種の慈善団体による福祉活動が行われた
- その中でも、2つの大きな組織を紹介する
ロンドン慈善組織教会
- COS (Charity Organization Society) と呼ばれた
- 1869年、それまで慈善事業が相互に無連絡、無組織で不適切に行われていた
- 慈善事業感の救済の重複など
- 1つの家庭に複数のボランティア団体が重なると非効率だと考えられてた
- それを解決するために作られた団体
- 民間善意事業を組織化し、共済の適正化や資源配分を効率化した
セツルメント運動
- 19世紀末、大学教員や学生たちが貧民者に学習の機会を提供することで貧困の解決を試みる
- 初期のセツルメント運動を牽引したのは トインビーホール(経済学者)
- 1884年に世界初のセツルメント・ハウスに 「トインビー・ホール」を設立
- トインビーから受け継いだ バーネット夫妻が、トインビーを記念に名付けた
- その当時、それまで貧困は個人の問題とみなされていた
- しかし、デニソンが創始したセツルメント思想は、貧困は企業での働き方や社会の問題として考えた
- 下位の労働者に十分じゃ教育を提供して、労働環境を改善するなど社会政策によって解決できると主張した
- その後、社会福祉や社会保障、労働の運動に大きな影響を与えていった
貧困の科学調査
- 先で述べたように、19世紀後期、貧民の原因は本人の無能力や怠惰と言われてた
- しかし科学的に調査をした結果、社会自体に貧困の原因があった
- そこで、社会的な施策が必要であることを示した
- 貧困救済制度に大きな影響を与えた2つの調査を紹介
チャールズ・ブースの調査
- 貧困の実態を明らかにする大規模な調査
- 1886 ~ 1902 年の間に3回実施(「ロンドン市民の生活と労働」)
- その結果、人口の3割も貧困線以下であることが判明
- 当時は貧困者の数は非常に少ないと思われていた
- しかも貧困の原因は、今まで思われていた怠惰などの本人のせいではなかった
- 貧困の原因は、不規則な労働や低賃金、病気、過密な住環境など
- さらに宗教団体を中心とした民間慈善活動も、貧困問題の解決には至らないことも判明
- チャールズ・ブースはその後、救貧法に関する王立委員会に参加
- そこで救貧法のあり方を批判的に指摘した
- さらに1908年、無拠出老齢年金制度、つまり保険料を払わないで受けられる年金制度の創立に大きく貢献した
シーボーム・ラウントリーの調査
- 「ラウントリー」は「ロウントリー」と表記される場合もある
- 1899年にヨーク調査を行なった
- 1901年にヨーク市の調査を記した「貧困 - 都市生活の研究 -」
- 貧困線を必要カロリー量から食料費を計算して設定
- 実は戦後日本の保護基準のマーケット・バスケット方式のモデルになっている
- 貧困の原因をチャールズ・ブースと同じく、不規則な労働や低賃金など、社会環境だと示す
科学調査の結果
- 貧困の原因は個人の怠けなどの責任ではないことが明らかになった
- 一生懸命に働いても貧困である
- そのような社会的な責任を明らかにした
- 1905年に設置された勅命救貧法委員会(王立委員会)で、
- 1909年に救貧法制度のあり方について討論された
- この討論会で、多数派報告と多数派報告の2つの報告がある
- 王立委員会で戦わせたのが、この2つの対立構造
多数派報告
- 慈善組織教会
- 救貧法のあり方に処遇概念を導入
- つまり、ケースワークやカウンセリングのような処遇概念の導入が重要だという指摘
- さらに民間慈善活動で救助されない人たちは、公的な救済の対象にしようという提案
公民の役割についての考え方
- 平行棒理論
- 一本の棒の端と端には救済価値のある貧民と、それに対する民間の慈善活動がある
- 価値のある貧民は民間で救済(自動や障害者)
- 価値のない農民は公的で救済
- つまり、貧困の原因は個人にあると前提して区分けしてる考え
招集は報告
- ウェッブ夫妻
- 救貧法を解体し、ナショナル・ミニマムの理念に基づく新たな救済制度の創設を主張 *この報告によると、貧困は社会の産物であって、ナショナルミニマム を国民にきっちりと保証すべきと述べている
- 上記の考えを「産業民主論」(1897年)にまとめた
- 実際に教育や健康、年金、失業保険など、のちに実現していく
公民の役割についての考え方
- 繰り出し梯子理論
- 二重になった梯子で、奥の方が上へ伸びていく、高いところまで梯子で上れるというもの
- 最低限の生活保障は国の責任で救済すべき
- その上で延長になった梯子の上の部分、つまり最低限以上の部分については民間で対応しようという考え
- 国民の最低生活保障(ナショナル・ミニマム)を保証していこうというウェッブ夫妻の考え方
ナショナル・ミニマム
- 国家による最低生活保証
- 実はウェッブ夫妻は国民の権利を積極的に守る目的でこの概念を提唱したわけではない
- 労働条件などに最低基準を設定することが、労働生産性を高めることにつながると述べた
- 例えば、最低賃金や余暇、労働衛生や安全、教育などを充実させることで労働者の質を高める
- その結果、労働生産性を確保していくことができると考えた
- これらの情勢を背景とし、1911年に健康保険と、世界初の失業保険からなる国民保険法が制定された
第21回 精神保健福祉士国家試験 「現代社会と福祉」
問題24 イギリスにおける福祉政策の歴史に関する次の記述のうち、正しいものを1つ選びなさい。 1 エリザベス救貧法(1601年)により、全国を単一の教区とした救貧行政が実施された。 2 労役場テスト法(1722年)は、労役場以外で貧民救済を行うことを目的とした。 3 ギルバート法(1782年)は、労役場内での救済に限定することを定めた。 4 新救貧法(1834年)は、貧民の救済を拡大することを目的とした。 5 国民保険法(1911年)は、健康保険と失業保険から成るものとして創設された。
正解 : 5
1. 誤り * エリザベス救貧法は救貧の財源として教区ごとに救貧税を徴収し * 教区ごとの貧民監察官が救貧行政を実施した * 農民を「労働能力のある貧民」「労働能力のない貧民」「扶養能力のない貧民の児童」に分類 * 救貧を目的というより、都市の治安維持を目的とした * 都市にあふれた浮浪者や貧民を排除、抑圧する目的 2. 誤り * 労役場テスト方は、労役場の中のみの貧民救済を行う法律 * エリザベス救貧法におけるワークハウスは、労働力のある貧民に労働を課す終了施設 * 収容者の増加や濫給で救貧費用が増大したため、国は救済の申請を思いとどませたかった * 過酷な労働に耐える意思の有無を確認するワークハウステスト方を策定した * その結果、ワークハウスは入所者に激しい労働と規則を課し * 違反者には厳しい処遇を行う「恐怖の家」とよばれた * そのため有能貧民からの救済申請は減少し、実質的に老人や児童、障害者や病人の割合が多くなる * そのため労役場というより、実質的に救貧院の役割のほうが強くなった 3. 誤り * ギルバード法は、住居での救済法 * エリザベス救貧法は抑圧的、処罰的救貧行政であった * それに対して、人道的な立場から制定された * 実質的に救貧院の役割が強かった労役場には老齢者や病人などの労働能力の無い人だけを収容(院内救助) * 労働能力のある貧民は在宅での仕事を与えた(院外救助) 4. 誤り * 新救貧法は、貧民の救済を縮小することを目的として制定された * 居宅保護を行ったギルバート法やスピーナムランド制度によって救貧税が膨大化 * 対して、マルサスの『人口論』やアダム・スミスの『国富論』の考え方に基づき、公的な救助を縮小した * 「全国統一の原則」「劣等処遇の原則」「院内救済の原則」の3つ 5. 正解 * 1911年に制定された国民保険法は、健康保険と失業保険から成る * 1942年 ベヴァリッジ報告における少数派報告のウェッブ夫妻の活動 * 基本的なニーズは社会保険で対応 * 特別なニーズは公的扶助で対応 * 社会保険には次のような特徴もある 1. 均一拠出・均一給付の原則 2. 拠出と引き換えに資力調査なしで給付 3. 国家雲煙する強制加入の制度(民間保険は任意)